織田信長

織田信長のプロフィール・性格は?
年表・名言・子孫などを紹介!

戦国時代三英雄の一人として知られ、『信長の野望』をはじめとする人気ゲームや数々の映画・ドラマ・小説の題材として扱われるほどの人気を持つ織田信長。なぜ、没後400年以上経っているにもかかわらず、これまで多くの人を惹きつけ続けているのでしょうか? そこで、この記事では織田信長の人物像や歴史・エピソードなどをわかりやすく紹介していきます。

この記事を読むことで、日本を代表する戦国武将、織田信長について詳しく知ることができるでしょう。

01. 織田信長のプロフィール・人物像

没後500年近く経過した今でも多くの人に愛されている織田信長とはどのような人物だったのでしょうか? まずは、織田信長の簡単なプロフィール・人物像を紹介します。

織田信秀の嫡男として誕生

織田信長は1534年6月23日(天文3年5月12日)、尾張国の武将・織田信秀とその継室であった土田御前の子として誕生しました。生誕の地としては、尾張国の那古野城(現在の名古屋城)という説が主流ですが、最近では勝幡城という説が研究者の間で有力となっています。誕生幼名は『吉法師』で、後に元服して『三郎信長』と名を改めるまでは通称の三郎を名乗っていました。

『尾張のうつけ』の異名が付いた理由は?

青年期の信長は、世間から『尾張のうつけ者』と呼ばれていました。『うつけ者』とは、奇妙な行動をする者という意味です。信長は、大名の後継ぎという身分でありながら不良仲間を引き連れて上半身裸のような格好で街を出歩いたり、街中で栗や餅を食べ歩いたり、当時としては考えられない行動を取っていました。こうした中で、うつけ者としての評判が決定的となったのが、父である織田信秀の葬儀でとった行動です。いつも通りのラフな格好で遅れて現れ、位牌の前に立つと焼香を位牌に向かって思いっきり投げつけると、そのまま帰ってしまったと言います。信長のうつけな行動は周りの家臣を呆れさせていましたが、現在ではこうした行動はすべて計算であったという説もあるようです。

身分よりも能力を重視!

信長は優秀な人材であれば身分を問わず家臣に登用していたことでも知られています。百姓の出であった豊臣秀吉や忍者出身の滝川一益の登用はあまりに有名でしょう。低い身分の出身であっても能力のある者に対しては重要な役割を与えるという能力重視の人事を行うことで自分の周囲に優秀な家臣を集めていったのです。

非情で残酷な一面も・・・

『鳴かぬなら殺してしまえホトトギス』という歌にあるように、信長は非情で残酷な一面を持っていたことでも知られています。それを最も象徴するエピソードが比叡山の焼き討ちです。当時、信長と敵対する浅井・朝倉両氏をかくまったことから、比叡山延暦寺を焼き討ちしたと言われています。このとき、老若男女問わず数千人を焼き殺したということです。こうしたことから、信長は仏教の敵を表す『第六天魔王』の異名を持つことになります。

実は人情家だった?

非情な性格というイメージの強い信長ですが、実は人情家という一面もあったようです。秀吉の妻が夫の女癖に悩んでいることを知った際、秀吉を呼び出して叱責し、妻に対しては「あなたは秀吉の妻にはもったいないほどの美人なのだから堂々としていなさい」と励ましの手紙を送ったといいます。敵に対しては容赦ない信長も、身内に対しては細やかな気配りを見せていたのです。

天下統一目前で本能寺の変により死去

織田信長が亡くなるきっかけとなった『本能寺の変』は史実上最大の謎と言われる一大事件です。本能寺に宿泊中、家臣であった明智光秀の謀反によって寝込みを包囲され、逃れられないと悟った信長は自ら火を放ち自害します。これによって、信長の天下統一は目前のところで夢に終わってしまうのです。明智光秀がなぜ反旗を翻したのかについては諸説あり、現在もはっきりとした理由はわかっていません。

02. 年表で見る織田信長

代表的なエピソードを中心に織田信長の歴史をまとめました。生誕から本能寺の変までを簡単に見ていきましょう。

  • 1534年織田信秀の3男として誕生。(1歳)
  • 1539年父・信秀より那古野城を譲り受け城主となる。(6歳)
  • 1546年古渡城にて元服(成人の儀式)し、織田三郎信長と名乗り始める。(13歳)
  • 1548年斎藤道三の娘・濃姫と結婚。(15歳)
  • 1551年父・信秀が流行病で命を落とし、家督を継いで当主となる。(18歳)
  • 1554年本拠を那古野城主から清洲城に移す。(21歳)
  • 1556年弟・信行との家督争いから『稲生の戦い』が勃発。信長が勝利する。(23歳)
  • 1559年京都へ初上洛し、当時の将軍・足利義輝と謁見する。(26歳)
  • 1560年『桶狭間の戦い』で今川義元に勝利。(27歳)
  • 1562年三河国の松平元康(後の徳川家康)と清洲同盟を結ぶ。(29歳)
  • 1563年美濃国政略のために本拠を清洲城から小牧山城に移す。(30歳)
  • 1566年美濃国侵攻にあたって木下藤吉郎(豊臣秀吉)に墨俣城を築城させる。(33歳)
  • 1567年本拠を小牧山城から岐阜城に移す。(34歳)
  • 1568年足利義昭を奉じて上洛。稲葉山城の戦いで勝利し、足利義昭を15代将軍に据える。(35歳)
  • 1570年『姉川の戦い』にて徳川家康と連合し、浅井長政・朝倉義景連合軍に勝利する。(37歳)
  • 1573年将軍・足利義昭を河内国に追放し、室町幕府を事実上滅ぼす。(40歳)
  • 1575年正親町天皇により権大納言に任命される。(42歳)
  • 1576年近江国で安土城の築城を開始する。(43歳)
  • 1577年『手取川の戦い』において、上杉謙信に敗れる。(44歳)
  • 1582年家臣であった明智光秀の謀反により本能寺の変が勃発。寺に火を放ち自害する。(49歳)

※年齢は数え年

03. 織田信長の家臣

信長は優秀な家臣を多く抱えていたことでも有名です。どのような家臣がいたのか代表的な人物を何人か紹介します。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)

1554年頃から信長の家臣として仕えるようになります。普請奉行・台所奉行として大きな成果をあげると、次第に重要な地位を任されるようになりました。非情に細やかな気使いができる人物で、冬の寒い日に信長のために草履を温めていた逸話は有名です。信長亡き後、さまざまな合戦を経て天下統一を成し遂げることになります。

丹羽長秀

信長が10代の頃から重臣として仕えていました。持ち前の堅実な仕事ぶりで信頼を得ており、米のように地味ではあるが欠かせない存在ということから、米五郎と呼ばれていたと言います。軍事面・政治面において優れた手腕を発揮し、信長の勢力拡張に大きく貢献しました。

明智光秀

元は足利義昭に仕えており、織田信長との取り持ち役を勤めていました。しかし、足利義昭と織田信長の関係が悪化したことをきっかけに、信長直属の家臣となります。100発100中と言われるほど鉄砲の技術に長けており、諸学にも通じていたことから信長から重宝され、異例の早さで出世しました。ところが、1582年、本能寺の変を起こし、天下統一目前の織田信長を殺害。後の天下を秀吉と争い、敗戦して逃げているところを落ち武者狩りに遭い死亡します。

柴田勝家

信長の父、信秀の代から織田家に仕えてきた重臣です。信秀亡き後は信長の弟・信勝に仕え、最初は共に信長への謀反を計画します。しかし、これが失敗に終わり信長に許しを得たことをきっかけに信長の家臣となりました。優れた武勇から鬼柴田と称され、特に合戦の場で活躍します。信長亡き後、織田家の方針を巡って秀吉と対立し敗北。居城であった北ノ庄城で別れの宴を開いた後、妻と共に自害します。

平手政秀

信秀の代から仕え、主に外交面を担当していました。信長誕生後、信長の教育係となり、元服や初陣・婚約などにかかわりました。しかし、信秀の死後、信長の奇矯な振る舞いに耐えかね、諌めるために自害してしまいます。信長は心を痛め、『政秀寺』という寺を建て政秀を弔いました。

04. 織田信長には8人の妻がいた!

戦国時代は一夫多妻が一般的で、信長も正室・側室合わせて8人の妻を抱えていました。織田信長を支えた妻について、一人ずつ見ていきましょう。

濃姫

信長の正妻として嫁いだのが斎藤道三の娘である濃姫です。母は明智光継の娘・小見の方で、明智光秀とは従兄妹同士であったと言われています。対立していた信秀と齋藤道三が和睦し、その証明として政略結婚しました。歴史上の資料が少ないため、正室ながら濃姫がどのような人物であったのか、どのようにして亡くなったのかということについてはわかっていません。

生駒吉乃

信長が情報収集基地として頻繁に出入りしていた生駒家宗の長女です。もともとは土田弥平次の妻でしたが、弥平次の戦死後、実家に戻っているところを信長に見初められ側室となりました。信長との間に信忠・信雄・徳姫の3人をもうけます。正室であった濃姫との間に子がなかったこともあり、信長からは正室に近い扱いを受けていたようです。しかし、産後の肥立ちが悪く、1566年、39歳という若さで亡くなってしまいます。

興雲院

近江の豪族・高畑源十郎の娘で、通称は『お鍋の方』です。近江国の八尾山城主である小倉実房に嫁ぎ2人の子供をもうけますが、実房の戦死後、信長の側室となりました。信高・信吉・於振の母であり、生駒吉乃が亡くなった後は正室の扱いを受けたとされています。

坂氏

信長の三男・信孝の母ですが、出自やどのような経緯で側室となったのかについては現在もわかっていません。信孝が柴田勝家と結んで秀吉と対立した際、坂氏は孫娘と共に人質となり、秀吉によって処刑されてしまいます。

養観院

信長の四男・於次(羽柴秀勝)の母です。後に蒲生氏郷の正室となった次女・相応院の母という説もありますが、定かではありません。資料が少なく、出自や生没年は不明です。

土方氏

信秀の代から家臣であった土方信治の孫娘とされていますが、青山某の娘であったという説もあります。信長の九男・信貞の母です。

慈徳院

滝川一益の親族で、信長の長男・信忠の乳母をしていたことから信長に見初められ側室となります。後に豊臣秀吉の側室となる六女・三の丸殿の生母です。

原田直子

織田家の家臣であった原田直政の妹で、信長の庶長子・信正の母親とされています。ただし、公的な系譜には信正の記載はなく、一般的には信長の子として存在が認められていません。

05. 織田信長の子孫

織田信長は血縁関係の不明なものも含めると20人以上子どもがおり、多くの子孫を残したと言います。いくつか代表的な人物を紹介しましょう。

織田信忠

織田信長の嫡男で、正室との間に子がいなかったため、側室の子でありながら信長の後継者として育てられました。幼い頃から父・信長の戦に連れられ、順調に戦の心得を身につけていきます。『本能寺の変』の際、明智光秀の謀反を知って本能寺へ向かおうとしますが、信長が自害したという報告を受けると誠仁親王の居宅であった二条御所へ移動。誠仁親王を脱出させると、二条御所に籠城し明智軍を相手に善戦を見せました。しかし、明智光秀の家臣・伊勢貞興の猛攻に耐えきれず、26歳の若さで自害してしまいます。

織田信雄

生駒吉乃の間に生まれた信長の次男です。「信長に無断で伊賀を攻めて失敗し大目玉を食らう」「本能寺の変で戦うことなく撤退してしまう」などの話から不覚人呼ばわりされることも多く、あまり評判は良くありません。また、秀吉と対立した際に家康に援軍を要請しておきながら、家康に無断で秀吉と和睦してしまうというエピソードも。しかし、織田の子孫で江戸時代に大名として存続したのは信雄の系譜のみで、織田家の血統を後世に残した点では評価されています。

織田信孝

信長の三男で、坂氏の間に生まれた子です。長島一向一揆で初陣を果たし、その後の越前一向一揆や紀州征伐戦など、信長の主だった戦いに次々と参加します。『本能寺の変』の後、秀吉とともに明智光秀を倒しますが、その後は秀吉と対立関係となり、自害へと追い込まれてしまいました。出生については諸説あり、信雄よりも先に生まれたものの坂氏が低い身分の出だったために三男とされたとも言われています。

06. 織田信長が残した名言・格言集

織田信長は多くの名言・格言を残したことでも知られています。代表的なものをいくつか紹介しましょう。

  • 必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ。
  • 器用というのは他人の思惑の逆をする者だ。
  • 病者の目には、敵は常に大軍に見える。
  • 理想を持ち、信念に生きよ。
  • 絶対は絶対にない。
  • 攻撃を一点に集約せよ、無駄な事はするな。

500年近く前の言葉にもかかわらず、現代を生きる私たちの胸に響く言葉ばかりです。『大うつけ者』と呼ばれた奇妙な行動とは裏腹にしっかりと物事を捉え信念を持っていた人物だということがわかります。

07. 織田信長にかんする書籍

織田信長について深く知りたいという方は、書籍を読んでみるのもよいでしょう。オススメの書籍をいくつか紹介します。

鈴木良一著『織田信長』

http://www.amazon.co.jp/織田信長-岩波新書-青版-649-鈴木/dp/4004131014/

歴史学者の鈴木良一氏による信長解説本です。手堅い考証をベースに信長の生涯を時系列で追っています。

谷口克広著『信長の親衛隊―戦国覇者の多彩な人材』

http://www.amazon.co.jp/信長の親衛隊―戦国覇者の多彩な人材-中公新書-谷口-克広/dp/4121014537/

信長研究の第一人者である谷口克広氏による本です。信長の近従に焦点を当てており、信長の意外な一面が垣間見えます。

小島道裕著『信長とは何か』

http://www.amazon.co.jp/信長とは何か-講談社選書メチエ-小島-道裕/dp/4062583569/

歴史学者・小島道裕による信長の論考本です。「天下統一は必要だったのか?」というこれまでにない切り口で史実上の意義を考察しています。

08. 織田信長の関連サイト

3分でわかる織田信長の歴史
織田信長の歴史をさまざまな方向から紹介しているサイトです。それぞれのトピックが3分で読めるよう短くまとめられています。

建勲神社
織田信長の偉勲を称えて明治2年明治天皇が創建した神社です。織田信長とその嫡子・織田信忠が祀られています。

岐阜市信長公450プロジェクト
織田信長公岐阜入城・岐阜命名450年を記念したプロジェクトです。プロモーション映像なども公開されています。

まとめ

いかがでしたか? この記事では、織田信長の人物像や歴史・エピソードなどを紹介しました。非情で冷酷な性格というイメージが強い織田信長の意外な一面が見えたのではないでしょうか? なぜ、没後500年近く経っているにもかかわらず今でも戦国時代のカリスマとして語り継がれているのか? その理由をおわかりいただけたのではないかと思います。

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