真田幸村

大河ドラマで注目の真田幸村!
プロフィールや歴史・名言を紹介!

大阪の陣で活躍し「日本一の兵(つわもの)」と称された戦国武将、真田幸村。現在は大河ドラマでもその生涯が描かれており、最も注目を集めている歴史的人物と言っても過言ではありません。なぜ、本名の「真田信繁」ではなく、俗称の「幸村」として語られるようになったのか? その歴史や人物像・格言集などをご紹介します。戦国時代最後の戦いを飾った武将は果たしてどのような人物だったのでしょうか?

この記事を読むことで、真田幸村について詳しく知ることができます。

01. 真田幸村のプロフィール・人物像

真田幸村という名前は聞いたことがあっても、何をしたのか、 どのような人物だったかを説明できる人は少ないのではないでしょうか? ここでは、簡単なプロフィールと人物像をご紹介します。

次男でありながら名声を残した人物

真田幸村は、真田昌幸の次男として誕生しました。戦国時代では多くの武将が後世に名を残しており、その多くは長男です。家督を継ぐのは世襲制であり、よほどのことがない限りは長男に継承権がありました。実際、父の片腕として活躍していたのは兄の信幸であり、かなり能力の高い人物だったと言われているのです。真田幸村は、その信之が陰に隠れてしまうほどの名声の持ち主だったと言えます。

人質としての前半生

この時代、大名や武将の子どもがより強い勢力のもとに人質として送られるのはごく当たり前のことでした。真田昌幸は三大勢力の一つである上杉氏の保護を得るため、幸村を人質として越後に送ったのです。しかし、天下を制した豊臣秀吉に寝がえったため、豊臣のもとに人質を送る必要が生まれました。そこで、今度は越後から大阪に送られたのです。その後、幸村は豊臣家家臣である大谷吉継の娘と結婚しています。

幸村を伝説にしたのは「大阪夏の陣」

人質として地味な生活を強いられてきた幸村が伝説となったきっかけは、大阪夏の陣です。大阪夏の陣とは、徳川家が豊臣家を滅ぼすために行った戦のこと。幸村の奮闘ぶりはすさまじく、戦場に参加していた武将たちの間にすぐさまその名が知られるようになりました。やがて、軍記物や講談など庶民向けの物語でも取り上げられ、その名称ぶりが広がっていくことになったのです。

「幸村」の名前の由来は?

真田幸村の本名は「真田信繁」です。父である真田昌幸が、武田信玄の弟である武田信繁の名をもらい、命名されたと言われています。しかし、現在は「信繁」より「幸村」の名前の方がはるかに有名になっているのは言うまでもないでしょう。

「真田幸村」の名が定着した由来にはいくつか仮説があります。1つは、伊達(だて)網村の「村」や姉である村松殿の「村」に真田家の諱(いみな)である「幸」を組み合わせたという説。そして、もう1つは徳川家に仇(あだ)なす妖刀「村正」の名前をその由来にした説です。

物静かで心やさしく、カリスマ的な存在だった!

真田幸村と言うと、大阪の陣における家康陣への突撃が印象に強いと思います。そのため、勇猛な武将というイメージがある方が多いでしょう。しかし、本来の幸村は物静かで心やさしい性格の持ち主だったという説もあるのです。普段は穏やかでありながら、いざというときは武勇を発揮する。その性格が多くの人からの信頼を集め、カリスマ的な存在であったといいます。

02. 年表で見る真田幸村

真田幸村とはどのような人生を送った人物なのでしょうか? 誕生から大阪夏の陣で戦死するまでの波乱万丈な人生を歴史年表としてまとめました。

  • 1567年真田昌幸の次男として生まれる。
  • 1585年上杉景勝の人質となる。
  • 1586年豊臣秀吉の人質となる。
  • 1594年従五位下左衛門佐に任ぜられる。大谷吉継の娘と結婚。
  • 1598年伏見城にて豊臣家に仕える。
  • 1600年上田城で徳川秀忠軍を破る。
  • 1611年父、昌幸死去。
  • 1614年大阪冬の陣において、徳川軍を破る。
  • 1615年豊臣家と徳川家、再び開戦(大阪夏の陣)。5月7日、天王寺表の戦いにて戦死。

03. 真田幸村は妻が5人以上いた?

真田幸村には、1人の正室と4人以上の側室がいたとされています。幸村の妻についてご紹介しましょう。

正室として幸村を支えた「竹林院」

真田幸村の正室は、豊臣秀吉が信頼を寄せる家臣・大谷吉継の娘「竹林院」でした。幸村は人質として豊臣家に身を置いている間、秀吉にとても可愛(かわい)がられていたようです。竹林院は「武将として恵まれない環境」であった幸村を陰でよく支えた良妻として伝えられています。

幸村が大阪の陣で命を落とした後、竹林院は子供らとともに東軍に捕らえられますが、女性ということもあってか無罪となり釈放されました。その後、京都で穏やかな晩年を過ごし、生涯を終えたと言います。正室でありながら、側室の子どもたちのことも大変可愛(かわい)がっていた話は有名です。

側室については謎だらけ?

真田幸村の側室は4人以上いると言われています。真田家の家臣である「堀田作兵衛」の娘、「高梨内紀」の娘、豊臣秀吉の甥(おい)であり関白であった「三好秀次」の娘、そして、出自名称不明の女性です。側室については本名すら不明であり、多くの謎が残っています。当時、身分ある家の長女でもない限り、女性が文献などに登場する機会はほとんどありませんでした。側室の生涯や逸話が残っていること自体がまれなのです。

04. 真田幸村の子孫

大阪夏の陣で命を落とした真田幸村には、正室と3人の側室との間に男女合わせて11人の子がいました。そのうちの4人をご紹介します。

長男、真田幸昌

正室との間に生まれた真田幸昌は、父である幸村とともに大阪夏の陣で戦いました。大阪城落城の際に場内におり、主君である豊臣秀頼の後を追い切腹したのです。このとき幸昌は10代前半だったことから、その血筋は途絶えていると考えられます。

次男、真田守信

次男の真田守信は幸昌と同じ正室の子であり、大阪夏の陣の際にはまだ3歳という年齢でした。そのため、伊達家の家臣であった片倉重長により助けられ、片倉家の家臣として仕えた後に仙台藩士になりました。

三男、三好幸信

三男の三好幸信は、真田幸村が命を落とした後に側室との間に生まれた子どもです。生涯、真田姓を名乗ることはなく、出羽亀田藩に召し抱えられました。

四男、真田之親

一番記録が残っていないのがこの人物。現在までに母親が誰かということも分かっていません。しかし、明治時代になってから真田という名字に戻したという記録があります。

05. 真田幸村が残した名言・格言集

真田幸村は多くの名言や格言を残しました。代表的なものをいくつかご紹介しましょう。

十万石では不忠者にならぬが一国では不忠者になるとお思いか

ご存じの通り、真田幸村は大阪冬の陣で豊臣側につき、徳川軍を窮地に追い込みます。この戦いで真田幸村の武勇を恐れた徳川家康は、真田幸村を引き込もうと次のような条件を出しました。「徳川方の味方につけば10万石を与える」というものです。幸村がこの条件を一蹴すると、家康は条件をさらに引き上げ、「信濃一国をあてがう」と再度説得します。このときに真田幸村が発した言葉が「十万石では不忠者にならぬが一国では不忠者になるとお思いか」という名言。「十万石では寝返らないが一国を与えれば寝返ると思っているのか?」という意味です。この言葉は幸村の覚悟を示すとともに、利で誘おうとした家康に対する強烈な批判も込められています。

定めなき浮世にて候へば、一日先は知らず事に候

真田幸村が夏の陣直前に義兄に送った書状の一説です。「定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざる事に候」とは「不安定な世の中だから一日先のことは私自身にも分からない」という意味。この書状を書いた時点で死を意識していたのではないかとも言われ、真田幸村辞世の句とも言われています。

関東勢百万と候え、男は一人もなく候

この言葉は、豊臣家が滅亡した夏の陣で幸村が発したものです。その意味は「関東武者が百万人いても、その中に男子は一人もいないのだな」というもの。伊達(だて)軍の弱さをあざ笑うとともに、味方の強さを称賛した言葉だと言われています。

06. 真田幸村に関する書籍の紹介

真田幸村は歴史に名を残した武将だけあって、さまざまな関連書籍が出ています。ここでは、真田幸村をより深く知るために役立つ書籍をいくつか紹介しましょう。

実伝 真田幸村
十勇士などの伝説とともに、真田一族のルーツや出生の秘密・人質時代などがまとめられた1冊です。謎多き幸村の魅力と実像がすべてわかります。

大いなる謎 真田一族
研究の第一人者により真田家にまつわる謎が解き明かされた1冊。読者はきっと真田一族の芯の魅力に気づかされます。

真田太平記 天魔の夏
真田家の波瀾(はらん)にとんだ歴史をたどる大河小説です。全12巻にわたる長い物語となっています。

まとめ

いかがでしたか? 真田幸村の歴史や人物像・子孫などについてご紹介しました。後世に名を残した戦国武将の1人、真田幸村。どのような歴史があり、どのような人生を送ったのか? お分かりいただけたのではないでしょうか?

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